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2019年8月というものを振り返ってみる。

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思い返す。という動作自体が年齢を感じるのであまりしたいと思うわけでもなく、かといってその動作をないがしろにするつもりはさらさらなく。ただ、こればかりはしっかり振り返って文字として書き起こし、しっかり自分の糧とするべき。などと考えたがゆえに文字を書いてみんとてす。

さて、本編に入るわけですが、如何にもこうにも走り続けたのかガス欠が連発したのかよくわからない感じ。日々通常業務とそうじゃないものが入り乱れたおかげで結局連日のごとく頭がパンクし続けいろんなものがディレイし始め、結局方々にご迷惑をおかけし。

広げた風呂敷を、少しずつたたみ始める。

今も昔もみぎたという存在は自由気ままに動き、自分の思うように物事を動かしてきた。ような気がする。

その結果としていろんなものが中途半端になる側面もあったりするものの、とりあえずいろんなものができるようになった。漠然とした表現になってしまうのは少し申し訳ないところではあるが、本当に漠然と、いろんなものができる・こなせるようになってきているような気がしている。

しかし、先述の通り、様々なものが中途半端にできるようになってしまったおかげで、「極める」という動作をないがしろにしてきてしまったような気がする。

全ての動作・所作には始まりがあり必ず終わりが存在する。文字通り起承転結があって初めて一つの物語が出来上がり、本になりそれがやがて埃をかぶるのかなんだかわからないが、積み重なり百科事典のようなものになっていく。と思っている。

ではそれができているのかどうかといったら全然そんなことがなく、転までいってそこから続きがあったりなかったり。物語のわりかし重要なところとかエンディングにあたる部分がないがしろになってしまっているので読者に対して不信感だったり「なんやねんこれ」みたいな感じになってしまっている。

そうか。こういうことはやらんほうがいい。

やめよう。やりたいと思っても一度立ち止まって「やっぱやめよう」と思うようにしよう。

少なくとも今の動き方が続いている限りそうしよう。然もなくば物事万事において善く働くことはないだろう。

単純なネガティブなのもあるだろう。でもそれ以上に勇気ある撤退というかなんというか。多めに見積もってもどうせできない。

吐き出し方を忘れてもがき苦しむ猫の毛玉のような。

何かに対してきっと苦しいと思ってるんだけどその正体が一体どこにあって何者なのかがさっぱりわからない。探求すればいいだけの話なんだろうけ、めんどく下がってるのかなんだかわからないけど探求しようともしない。

おかげでどう吐き出したらいいのか、そもそも吐き出してもいいものなのか、自分の中に溜め込んで自然に浄化されるようにしたほうがいいんじゃないか。そんなことも考えたり。

全ての物事がプレッシャーのように感じる。

これは結局自分が今まであれもやるこれもやると矢継ぎ早に手を広げていってしまった結果なんだろうと思う。どんなに些細なことだろうとプレッシャーに感じてしまうのは自分の特性からでもあるんだろうけど、おかげさまで結構辛い。

やめましょ。もう手を広げるのは。

少しずつ畳んで、心に安寧をもたらしましょう。辛いよ。

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